古代哲学の古典的名著の一つがプラトンの『国家』です。

哲学というと難しくて取っつきにくいイメージがあると思いますが、『国家』は全くそんなことを感じさせない作品です。

庶民感覚をもったまま違和感なく読み進めることができるわかりやすい内容です。

それだけでなく、紀元前に書かれた作品であるにもかかわらず、まさしく現代にも当てはまる問題が盛りだくさんで、そんな昔に書かれたとは思えない内容です。

時代が変わっても読み継がれているこの名著を今一度確認しておいて損はありません。

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『国家』の内容

『国家』は全10巻からなるプラトンの代表作で、「正義について」という副題がつけられています。

正義というテーマを中心にして国家論が展開されていますが、この記事では以下のように大きく3つの章に分けて説明していきますね。

  • 正義とは何か
  • 正しい国家の条件
  • 堕落と幸福の問題

プラトンの著作は、プラトンの師匠であるソクラテスがさまざまな人物との問答をまとめた書き方になっています。

ですから、重要な概念の説明はソクラテスの口から語られるという形式になっています。「ソクラテスメソッド」というのは、この問答形式を真似たものですね。

正義とは何か

まずは、「正義(せいぎ)」についてです。

正義を定義づけるために、

  • 国家全体の正義
  • 個人の正義

の二つに分けられました。

結論に至るまでの議論

正義がどのようなものであるかの結論に至るまでには、以下のような議論がなされています。

  • 正義は強者の利益である
  • 不正を働けば正義よりも強力で自分の利益になる
  • 真実の支配者は、自分の利益よりも被支配者の利益を優先する
  • 正しい人は知恵があるが、不正な人は知恵がない
  • 正義は知恵である以上、不正よりも強力である

さらに、

  • 不正を働く者のほうが正しいものよりもはるかに得をして幸福である
  • 正義は立派だが骨の折れるものである。だから正しくあるよりも、正しい者であると見えさえすればよい

といった議論も展開されます。

そして国家、個人それぞれの正義を以下の3つの要素から検討することになります。

  • 知恵(思惟的部分)
  • 勇気(気概的部分)
  • 節制(欲望的部分)

国家全体の正義

知恵をもつものが支配者階級になり、勇気をもつものが軍人となって支配者とともに国を守護する任務を果たし、支配者階級と被支配者階級が節制(秩序)を保つことが国家全体の正義とされます。

つまり、それぞれの階級が自分の職分を全うして、そのほかのことに手出しをしないことで他の徳を成立させるのが国家の正義になるという結論になりました。

個人の正義

個人の正義で検討される要素は、国家の正義でいう知恵は思惟的部分の徳、勇気は気概的部分の徳、節制はそれぞれの部分の調和と秩序を保つことです。

個人においても、それぞれの部分の役割分担を忘れずに互いに干渉しないことが正義になります。

不正義はこれらと反対のことをすることをいいます。

プラトン「国家」洞窟の比喩

正しい国家の条件

正義とは何かを確認した次は、いよいよ本題である正しい国家の条件についてです。

有名な「イデア論」や「洞窟の比喩」も出てきます。

結論はズバリ

正しい国家(理想の国家)の条件とは、ズバリ

哲学者が王になる

または

現在王となっている人たちが十分に哲学する

ことで

政治権力と哲学が一体になること

であると説明されています。

哲学者とは「知」を愛する者であり、真理を愛する者であるとされます。

哲学者になるための教育目標は、「善のイデア」を認識することです。

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「善のイデア」とは

まずはイデア論についてみてみましょう。

イデア論とは

イデアというのは、存在の「真実の姿」を表す言葉です。

ちなみに、イデアは「アイデア(idea)」の語源になる言葉ですね。

例えば、正方形を紙の上に鉛筆で書いてみようとしたとします。

しかし、完全な正方形を書くことはできません。なぜなら、鉛筆で書く場合は線の太さが問題となって完全な正方形にはならないからです。

完全な正方形は線の太さは問題になりませんが、現実には実現不可能です。しかし完全な正方形というのは観念的には想定できます。このようなものを正方形のイデアといいます。

これと同じように猫のイデアとか、机のイデアといったように、真実の姿がイデア界には存在するという考え方です。

太陽の比喩

善のイデア」がとのようなものかについては、太陽の比喩をもって説明されます。

太陽はさまざまな物を照らして、人々に見えるようにするとともに、栄養を供給して物を生成します。

それと同じように、思惟の世界の善のイデアも、諸々の存在のイデアを照らすことで認識可能にするとともに、存在の原因ともなるものです。

洞窟の比喩とは

次に、線分の比喩を用いて、哲学的認識には、憶測、信念、悟性、理性の4つの段階があることが説明され、この段階を洞窟の比喩によって語られることになります。

洞窟に閉じ込められた囚人は、洞窟の中に映し出される影絵のような影像だけを見ていて、それが実物だと思っています。

そのような囚人を洞窟の外へ連れ出して、太陽の光に照らされた光を見せるとどうなるでしょうか。

おそらく、光がまぶしく感じ、実際の世界を見ることに苦痛を感じることでしょう。

しかし、光に慣れてくると、もう洞窟の中の世界には戻りたくはないと思うようになり、洞窟内にいる囚人の仲間のことを哀れに思うようになるでしょう。

善のイデア(外の世界の光)は簡単に見ることはできませんが、見ることができるとあらゆるものにとって正しい、美しいものの原因で真実と理性を供給するものであって、見なければいけないものだと思えるようになります。

王になる哲学者の条件

この章の冒頭で正しい国家(理想の国家)の条件は、哲学者が王になるということを述べました。

哲学者は、この「善のイデア」を認識する必要があります。

しかし、善のイデアを認識するためには長い教育と修行が必要です。そのための教育として、初等教育を受けた後に、20代は学問研究に、30代からの5年間は弁証法の研究、その後15年間は軍務や実務経験を積み、50代で善のイデアを見させるようにするというものです。

ここまでやり遂げた人が政治に携わるということが正しい国家の条件ということになります。

堕落と幸福の問題

最後のテーマは「堕落」と「幸福」です。

堕落について

国家と個人の堕落については、それぞれ第一段階から第四段階までに分けて説明されています。

第一段階

国家の第一段階の堕落の状態は、名誉制へ移行し、次第に支配者階級の間に不和が生じます。そして私有財産制が入ってきて、奴隷などを所有するようになります。

こうして、国家の3つの要素の一つである勇気(気概的部分)が優勢になって、軍人が支配する国になります。

個人の第一段階の堕落は、国家の堕落と同じように気概的部分が強くなると、権力や栄誉を好み、自分勝手でお金が好きな人間になります。

第二段階

国家の第二段階の堕落の状態は、寡頭制への移行で、勝利と名誉を愛するのではなく、お金儲けとお金を愛する人が権力をもつようになります。

国政への参加は、知識や能力によるのではなく、財産によって決められます。

個人の第二段階の堕落の状態は、ケチで打算的なお金を愛する人間になります。

第三段階

国家の第三段階の堕落の状態は、民主制への移行です。貧富の差が増大し、貧乏人がお金持ちに対して革命を企てようとし、これに勝利すると民主制になって大衆が支配権を持つようになります。

このような状態になると、政治は場当たり的な判断が多くなり、秩序がなくなってきます。

個人の第三段階の堕落の状態は、欲望の赴くままに行動し、場当たり的で放蕩な生活をする人間になります

第四段階

国家の最終段階の堕落の状態は、僭主(せんしゅ)制です。僭主制というのは、王の血筋でない者が身分を越えて王になることをいいます。

この段階の国家は、無知な大衆を扇動して支配権を握る人間が僭主になります。

個人の最終段階の堕落状態は、酒と欲望に支配され、正気を失った生活を送る人間になります。

幸福について

幸福というテーマについては、僭主の生は最も不幸で、哲学者の生は最も幸福であること、正しい人間は、不正な人間よりもはるかに幸福であり、不正義よりも正義のほうが有利であると結論づけられます。

さいごに

支配階級と被支配階級に分けるなど、身分制度を前提とした考え方が前提とされていて、現代の日本には受け入れがたい内容もあるかもしれませんが、その反面、あれ?これって今まさに現代社会でも問題となっていることじゃないの?と思ってしまうようなことも書かれていたと思います。

時代を超えてもなお通用する、示唆に富む内容もあったのではないでしょうか。

このような発見があるというのは、古典的名著というものを味わう醍醐味ですね。

もし機会があれば、ぜひ読んでみてくださいね。

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